✅ 本サイトは、牡蠣を起点として、環境・文化・人間の関係を記録しています。
✅ 筆者は、接客業、ゲーム制作、食文化、環境デザインの現場を通じて、人と環境の相互作用を観察してきました。
✅ 本稿は、資料的記述だけでは捉えきれない感覚や構造を伝えるため、現場から得た知見を、物語形式で記録した短編(シン小説)です。


本編ーーー👇

編集部は、いつになくざわついていた。

机の上には、コンビニの白いパック。
黒い海苔の円筒が、いくつも並んでいる。

「今年は南南東だって!」
「せーの、いくよ?」
「黙って食べなきゃ縁起が悪いからね!」

若い女性社員たちが立ち上がり、スマホで方角を確かめ、一斉に巻き寿司を掲げた。

そのとき、競馬新聞を読んでいた山岡が、紙をトントンと揃えながら、ぽつりと言った。

「……それ、うまいのかい?」

一瞬、空気が止まる。

「え? う、うまいとかじゃなくて、縁起物ですから……」

山岡は何も言わず、パックを一つ手に取った。
太く、重く、切られていない。

そのとき、編集部の扉が勢いよく開いた。

「おーい、みんな! 今年は特別だぞ!」

富井副部長が、銀箔のロゴが入った紙袋を抱えて入ってくる。
誰もが知る高級鮨店の名が輝いていた。

「見ろ! 銀座の名店の恵方巻だ!
予約も大変だったんだぞ。縁起も味も間違いない!」

女性社員たちが歓声を上げる。
富井は得意げにパックを並べていく。

その光景を、山岡は無言で見ていた。

やがて富井が一つを手に取り、南南東を指さした瞬間――。

「――アホか。」

静かながら、はっきりした声が落ちた。

富井は固まった。

山岡は富井の手から恵方巻を取り、重さを確かめるように持ち上げた。

「この太さで、黙って一気に食べろというのか。
いくら一流の店でも、食べ方がこれでは仕事が泣く。」

富井は顔を赤くする。

「高級店だからこそ――」

「だからこそだ。」

山岡は巻き寿司を机に置いた。

「いい材料ほど、味わう時間が必要だ。
香り、温度、歯触り、酒との相性――それを全部捨てて飲み込む?
意味不明だ。なにより、もったいなさすぎて反吐が出る。」

編集部が静まり返るなか、山岡はさらに続ける。


「そういや、コンビニの販売戦略だったっけ?そもそも、大阪の新地あたり花街の下ネタが起源だとか聞いたこともある。」

山岡は窓の外を見た。
冷たい冬の空が、薄く曇っている。

おもむろにメモを取り出す。

「この材料を買ってきてくれ。」

栗田は一瞬戸惑い、すぐにコートを掴んで飛び出した。

編集部にざわめきが戻る。
富井は不満げに腕を組む。

夕方――栗田が息を切らして戻ってきた。

紙袋の中から、いくつかの材料が机に並ぶ。
山岡はそれを一瞥し、小さく頷いた。

「悪くない。」

山岡は静かに手を動かし、巻き始める。
やがて、まな板の上に一本の巻き寿司が置かれた。

近づくと、かすかに柑橘の香りが立つ。

編集部の机の中央に、ただ一本だけ、太い巻き寿司が横たわっている。

女性社員たちは息を呑んでそれを見つめ、
富井は腕を組んだまま、まだ不満げな表情を浮かべている。

山岡は静かに説明した。

「辛味は、冬の身体を内側から温める。
柑橘は、風邪を遠ざけるためのものだ。

そして――」

彼は、その太めの巻き寿司を手に取る。

「これを一気に飲み込めるかどうかは、
まだ自分の咀嚼力と嚥下力が衰えていない証拠でもあるし、
同時に、それを鍛えているとも言える。」

誰も言葉を発しない。

山岡は南南東を向かない。
ただ、窓の外の冷たい冬を見据えた。

口に運ぶ。
噛み、まとめ、そして――飲み込む。

喉が、確かに動いた。

そのとき、谷村部長がそっと近づいてきた。
香りを確かめるように顔を寄せ、静かに一言だけ言う。

「山岡くん――コレでは、エンギではなくて、エンゲだな。」

富井が、半ば照れ隠しのように口を挟む。

「さすが部長、一本取られましたな。」

「海苔巻きだけに一本、ってことですか、副部長ったら。」

場の空気は、どこか重いままだ。

山岡は何も答えない。

やがて彼は席に戻り、机の引き出しから競馬新聞を取り出した。
紙が小さく擦れる音だけが、静かな編集部に響く。

山岡はページを広げ、目を落とす。

外では冬の風がビルの谷間を鳴らしていた。


IMG_3003

2026-02-04

nvn