✅ 本サイトは、牡蠣を起点として、環境・文化・人間の関係を記録しています。
✅ 筆者は、接客業、ゲーム制作、食文化、環境デザインの現場を通じて、人と環境の相互作用を観察してきました。
✅ 本稿は、資料的記述だけでは捉えきれない感覚や構造を伝えるため、現場から得た知見を、物語形式で記録した短編(シン小説)です。


本編ーーー👇

「関口くん、最近の熊の被害はひどいねえ」

 古書店の奥で京極堂が言った。  
 私は新聞を畳みながら頷いた。

「ああ。ニュースでも毎日のようにみるね」

「しかしね」

 京極堂は本から目を上げた。

「本当に厄介なのは熊ではない」

「え?」

「猿だよ、関口くん」

 私は眉をひそめた。

「猿か、たしかによく見かける」

「猿は群れる。学習する。そして人を試す。あれはね、人間社会の境界を理解する動物なんだ」

「境界?」

「そう、境界だ」

 京極堂はゆっくりと眼鏡を外した。

「関口くん。人間は世界を境界で出来ていると思っている」

「境界?」

「まずは国境だ。これはわかるだろう?  
それに県境、私有地、道路、建物。人種差別もね。人間はあらゆる場所に線を引く」

 京極堂は机を指で叩いた。

「だがね、その線は実在しない」

「実在しない?」

「ただの約束だ」

 京極堂は淡々と言った。

「しかし動物には別の境界がある」

 私は身を乗り出した。

「それは『匂い』だ」

「匂い?」

「縄張り、危険、捕食者、強者。動物はそれを匂いで判断する」

 京極堂は続けた。

「つまり動物の世界は、匂いの境界で出来ている」

 私はしばらく言葉が出なかった。

「さて」

 京極堂は言った。

「そもそも彼らが降りてくるのはなぜだと思う?」

「餌がないから……か?」

「違うね」

 京極堂は即答した。

「餌がないから降りるのではない。降りても安全だから降りるのだ」

「安全?」

「山でもなく、人里でもない場所がある」

 京極堂は言った。

「廃村だ」

 私は息を止めた。

「廃村には家が残り、果樹が残り、水があり、道がある。しかし人はいない」

 京極堂は静かに言った。

「動物から見れば、これほど都合のよい拠点はない」

「つまり……そこから降りてくる?」

「そう」

 京極堂は頷いた。

「廃村は前線基地になる」

 私は腕を組んだ。

「じゃあ廃村を森に戻せばいい」

「できない」

「どうして」

「金がない」

 京極堂は平然と言った。

「重機を入れるだけで莫大だ」

「じゃあ焼くとか」

「日本では山火事になる。民家が近すぎる」

 私は黙った。

「ではどうする」

 京極堂はしばらく沈黙していたが、やがてぽつりと言った。

「尿だよ、関口くん」

「……は?」

「おしっこだ」

 私は立ち上がった。

「おい、京極堂、なにを言っている」

 私のことなど、いつも通り無視して続ける。

「匂いは境界を作る」

 京極堂は静かに言った。

「人間の尿でも一定の効果はある」

「へぇ、それはいい」

「しかしね」

 京極堂は指を立てた。

「尿には限界がある」

「だろうな」

「量が少ない。すぐ消える。場合によっては逆に動物を呼ぶ」

「呼ぶ?」

「舐められる。弱い個体と判断される可能性もある」

 私はため息をついた。

「じゃあ駄目じゃないか」

「だからだ」

 京極堂は眼鏡を掛け直した。

「専用の薬剤が必要になる」

「薬剤?」

「環境を壊さず、長く残り、動物が越えない匂いの境界を作る薬」

 京極堂は少し笑った。

「おしっこを超える薬だ」

 私は黙っていた。

 京極堂は本を閉じた。

「そういえば関口くん」

「はい?」

「君、〇〇薬科大学に知り合いがいたね」

「ええ……まあ」

「機会があれば話してみるといい」

 京極堂は静かに言った。

「それが日本を救うかもしれない」

「それは、さすがに大げさだろ」

「いや」

 京極堂は言った。

「熊の被害者を減らせる。それだけでもね」

 そしてぽつりと付け足した。

「『脱尿ドラッグ』とでも呼ぼうか」

 私はしばらく黙っていた。

 やがて、ふと思った。

「京極堂」

「何だね」

「つまり僕たちは」

 私は窓の外の山の方を見た。

「いままでずっと、存在しない境界を信じていたってことか」

 京極堂は少しだけ笑った。

「人間とはそういうものだよ、関口くん。所詮すべてが約束事。机上の空論だ」

 私はふと思った。  
 人間も野生に還れば、もしかしたら匂いで互いに距離を取るのかもしれない。  
 戦争や紛争も、少しは減るのではないか。

「おいおい関口くん、その顔は、まさか人間も匂いでどうにか、などと思ってしまったのかい?」

「そりゃ、ね」

 京極堂は笑いながら言った。

「どうせ脱・脱尿ドラッグが生まれるだけさ」

 もう一度、山を見る。  
 動物たちが、少し羨ましく思えた。



IMG_3311



お問い合わせは
カキペディア編集部まで👇
samuraioysters@gmail.com




2026-03-08