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東京大学|垂下式牡蠣養殖筏(「東京府内灣(品川灣)水産調査報告第1次」図版Ⅹより)

東京湾に属する干潟は、浅蜊 (あさり)・蛤 (はまぐり)・牡蠣 (かき)・サルボウ・バカガイなどの発生・生育に適していました。とりわけ、目黒川が流れ込み、淡水の分布の多い品川湾は、稚貝発生の好適地の一つに数えられていたのです。

品川浦において牡蠣養殖が盛んになったのは・・・
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出典情報:
品川区|明治維新後の品川 第20回

編集長コメント:
東京湾の浄化もね、まだ三番瀬とかに残ってる在来の牡蠣をちゃんと養殖すれば可能(お台場オイスタープロジェクト)

2019-09-03 東京湾に属する干潟は、浅蜊 (あさり)・蛤 (はまぐり)・牡蠣 (かき)・サルボウ・バカガイなどの発生・生育に適していました。とりわけ、目黒川が流れ込み、淡水の分布の多い品川湾は、稚貝発生の好適地の一つに数えられていたのです。 品川浦において牡蠣養殖が盛んになったのは、明治24,5年(1891~92)頃であると伝えられています。 この頃は海苔養殖も盛んな時期であり、牡蠣養殖場が海苔養殖場になったという記録も残っていて、以前から牡蠣養殖が行われていたことがわかります。 明治25年(1892)には、築造工事が中止されたままになっていた七番台場に、農商務省によって牡蠣養殖の試験所が設置され、品川浦2ヵ所、芝浦、金杉浦、佃島の5ヵ浦から出されていた牡蠣養殖試験願に対し、試作が許可されることになりました。 その面積は約1,100坪余り、試験年限は25年7月より28年4月までの2年10ヵ月で、牡蠣養殖の費用一切は、許可を受けた浦の負担でしたが、収入もまた全て浦の収入となったのです。 なお、この試験養殖にかかわる報告は1年ごとに出すこととされていました。 この年、東京府の手がけた牡蠣養殖の試験場も五番台場近くに設置され、南品川の漁師に委託されています。 条件は農商務省と同じでした。国や東京府が牡蠣養殖の試験を行ったのは、牡蠣養殖業を振興し、このころ不振となってきた魚類の漁からの転換をすすめる意図を持っていたためです。 この2ヵ所における牡蠣養殖の結果を、東京府への報告書から見てみると、明治25年5月から翌年4月までの成績は、気象条件に恵まれ竹麁朶 (たけそだ)(枝のついた竹)に卵から孵化 (ふか)した牡蠣が付着して成長はしたものの、秋になり風浪が立つようになると、囲い内から流れ出て他の業者に密漁されてしまったうえ、囲いのなかでも同様なことがあったため、全体で2割程度の付着であったとあります。 明治26年(1893)では、養殖準備の時期をのがしてしまった結果、牡蠣の付着がほとんどなかったとあり、明治27年(1894)では、牡蠣苗は発生したが、養殖場の地質が泥土で牡蠣種苗場に適してはいるが肥えた牡蠣にはならないので他に運んで飼育するほかない、と報告されています。 このように、結果は芳しくありませんでした。 しかし、このころの東京府における牡蠣の生産は、天然牡蠣に依存しているとはいえ、生産金額において広島・北海道に次いで全国3位という記録があります。 その後、東京府の経営していた牡蠣養殖試験場は、許可期間が満了した明治30年(1897)に、使用者を募集したのですが応募する者がなく、明治34年(1901)4月をもって、この試験場は 内湾での採苗・養成法の追求といった 当初の試験目的を達成した として廃止され、以後は広く一般の自由採取となったのです。 一方、品川などの漁業組合の開墾した牡蠣養殖場は、どのような状況だったのでしょう。 明治28年(1895)には、品川停車場地先海面2万坪の牡蠣養殖場が南品川漁業組合他3ヵ組合に許可され、その後大正15年(1926)に隅田川河口改修のため漁業権が消滅するまで養殖が行われていました。 ここでの養殖方法は判明していませんが、沿岸に近いことから地蒔きか麁朶を使っての養殖法で増産をはかっていたのではないかと思われます。 昭和の時代に入ってからも、同3年(1928)には品川湾各地に牡蠣、アサリ・蛤、牡蠣垂下式試験地が設けられ、飼育を行っていましたが、やはり盗難を防ぐ対策が充分でなかったため、昭和6年頃には貝類の養殖は行われず、自然に生育している牡蠣・アサリなどを採集するようになっていました。 しかし、その後も東京における牡蠣養殖の試験は行われ、地蒔き・ひび建て・垂下式・簡易垂下式および平面式などの方法について、設備の堅牢性と牡蠣の成長度の比較を行っています。 そのなかでは平面式が良好な成績を収めて実用化され、昭和34年(1959)頃までこの方法で養殖が行われていました。 とはいえ、品川湾はじめ東京都の内湾は、もともと牡蠣の採苗も生育も極めて良好であり、天然牡蠣の漁獲高は相当額あったので、牡蠣養殖は事業として普及するには至りませんでした。 その理由としては、養殖場の管理が困難な上に、自然のままでも種苗がついて定着できるものが多く、天然産牡蠣が豊富であったこと、さらに海苔養殖に力をいれたことによるといえましょう。 牡蠣は、品川近辺でも、縄文時代にはすでに採取され、食べられていたことがわかっています。 ・居木橋遺跡の貝層から出土したマガキ